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純心のあゆみ

1934年(昭和9年) 純心聖母会創立
1935年(昭和10年) 長崎市に純心女学院創立
1936年(昭和11年) 長崎純心高等女学校と改称
1945年(昭和20年) 原爆投下により214名が殉難
大村市植松の旧第21海軍航空廠女子工員宿舎で授業再開
1947年(昭和22年) 純心中学校開設
1948年(昭和23年) 純心女子高等学校と改称
1949年(昭和24年) 家野町(現文教町)の元校地に復帰
1950年(昭和25年) 純心女子短期大学開学
1994年(平成6年) 長崎純心大学開学
1998年(平成10年) 長崎純心大学大学院修士課程開設
2000年(平成12年) 長崎純心大学大学院博士課程(前期・後期)開設
2007年(平成19年) 純心保育園開設
2008年(平成20年) 純心幼稚園と純心保育園が、認定こども園長崎純心大学附属純心幼稚園・純心保育園として設立
2013年(平成24年) 文教町キャンパスに新校舎マリア館が完成
2014年(平成25年) 文教町キャンパスに運動場・ルルド館・弓道場・地下道が完成
1934年6月、大浦天主堂の「信徒発見のサンタ・マリア像」の御前で早坂久之助司教によって純心聖母会が創立されました。当時の日本は、1931年の満州事変以降、中国への侵略が激しくなり、国際連盟を脱退し、不穏な軍国主義が台頭しつつありました。
その翌年の1935年、創立者の早坂久之助司教と、シスター江角ヤス校長を中心として、純心女学院が設立されました。最初の入学生は28名、中町天主堂の敷地内の仮校舎でのスタートでした。1936年には校名を「純心高等女学校」と改め、更に1937年には現在の文教町の場所に新校舎が完成しました。
記録では、1939年2月、市内の音楽コンクールに参加し、「トータ・プルクラ・エス・マリア」を歌ったそうです。太平洋戦争の2年前、すでに西欧音楽を歌うことが批判を受ける時代になっており、当時の音楽の先生は、「江角校長先生と相談し、この『トータ・プルクラ・エス・マリア』を『母を讃える歌』とタイトルを変え、歌詞も和訳して歌った、今にして思えば、よくこんな思い切ったことが出来たものだ」と後に回想しておられます。

また、この1939年の3月には、はじめての卒業式が挙行されました。江角校長は式辞で、卒業生に、小さくとも世を照らす一本の「純心マッチたれ」、と述べました。この言葉に感銘を受けた永井隆博士が作詞をし、完成したのが「純心マッチ」の曲です。
このようにして、カトリック精神に基づき、聖母マリアを理想と仰ぐ純心教育は順調にすすめられていきましたが、創立10年目を迎える年に、大きな試練がおそいました。
1945年8月9日、広島に続いて長崎に投下された原子爆弾は、純心にも壊滅的な打撃を与えました。職員、生徒214名が死亡、校舎もすべて破壊され、江角校長も校舎の下敷きになり大けがを負いました。大切な生徒たちをたくさん死なせてしまった、と深い後悔の念にとらわれた江角校長は、一度は学校を閉じることを考えます。しかし、被爆の苦しみの中でも聖歌を歌いながら、祈りと感謝のうちに亡くなっていった多くの生徒たちの最後の姿を保護者の方々より知らされ、純心を存続し、より発展させることこそが原爆の犠牲となった生徒たちのためにも必要と思い直し、10月から大村の仮校舎で授業が再開されます。

1947年には新たな教育制度のもと、純心中学校が発足、また高等女学校も純心女子高等学校と改称して再出発します。1948年になると現在の文教町に校舎が立て直され、大村から少しずつ移設が始まります。この年の8月、被爆4周年の追悼のミサが行われた際、永井隆博士が作詞し、木野普見雄氏の作曲による曲が発表されます。原爆で亡くなった純心の生徒たちの姿を歌ったもので、現在でも8月9日の校内慰霊祭で歌われる「燔祭の歌」がそれです。

1950年の朝鮮戦争勃発は、まだ敗戦の焼け跡もなまなましい中で、再び戦火が世界に広がっていくのではないか、という不安と恐れを生徒たちにも与えました。1952年、生徒会の提案で、「世界平和のためのロザリオの祈り」がはじめられます。
1953年には、校章、校歌、制服が新しく定められます。純心の美しい校歌は、純心の先生方から歌詞を募集し、当時家庭科を教えておられたシスターの八田カネ先生のものが採用され、メロディは聖歌からとって作られたものです。またこの頃から、聖母マリアをたたえる「聖母行列」が実施されるようになります。1955年には第一回目の純心バザーも開催され、学校周辺の地域の人々にも喜ばれる行事として定着して行きます。

1956年の8月9日、長崎市主催の平和祈念式典において、純心生により「平和は長崎から」の合唱が披露されました。この曲は、1949年に長崎国際文化都市法が制定されたことをきっかけに、原爆犠牲者への追悼と、平和意識の高揚のために作られましたが、平和祈念式典での純心生の歌声は聞く人々を感動させました。以後、毎年、式典の最後を締めくくる形で、この曲は歌い継がれるようになります。

このように、純心は順調に復興し、発展を遂げて行きました。1975年には創立40周年を祝い、文化部や運動部の活躍もめざましく、純心の名前は長崎県内外に、広く知られるようになりました。1977年、インターナショナル・エレクトーン・グランプリ大会に日本代表として出場し、最年少で見事グランプリを獲得した純心の高校2年生がいました。彼女の名前は大島ミチルさん、のちに彼女は作曲家となり、現在では数多くの作品を発表し多忙な毎日を送られています。
1980年11月30日、純心の初代校長であり、純心学園の中心だった江角ヤス学園長が81歳で亡くなられました。学園にとっては大きな痛手であり、試練でした。翌1981年のローマ法王の来崎、1982年のマザーテレサの来崎では全校生徒がミサや集いに参加、また1984年には国連から軍縮問題に取り組まれている「国連軍縮フェローシップ」の方々が本校を訪問されるなど、平和活動に関する国際的な交流も深まりました。こうした国際平和への関心は、その後の高校生一万人署名活動への参加となって継続し、それは2003年、2004年と連続して「高校生平和大使」に純心生が選ばれたことにもよく示されています。
被爆50周年にあたる1995年、長崎市は平和祈念式典で歌われる「平和は長崎から」に代わる新たな歌を作るため、全国に詩を公募しまし た。そして千葉県在住の、横山かなえさんの詩が採用され、これに本校卒業生である大島ミチルさんが作曲し、完成したものが「千羽鶴」です。静かで美しいメロディーの中に、平和への強い願いと、深い祈りが込められたこの歌は、1995年の平和祈念式典で、純心生によって歌われ、全国に発信されました。以降、「平和は長崎から」に代わり、純心生が引き続き「千羽鶴」を式典の最後に歌い、今では日本中の人がこの曲を知るようになりました。被爆60周年、創立70周年にあたる2005年には、長崎市公会堂で生徒による創作で原爆劇が上演され、平和への思いを新たにしましたが、この時も、最後に参加者全員で歌ったのは「千羽鶴」でした。
2013年校舎の老朽化により新校舎を運動場に建設し、旧校舎跡を運動場に転用した。
2015年、純心は創立80周年を迎えています。設立当時、わずか28名の生徒でスタートした純心は、現在、幼稚園や大学を有し、東京と鹿児島に姉妹校を持ち、さらに海外の学校とも姉妹校提携を結ぶ大きな学園へと発展しました。しかしどんなに学校の規模が大きくなろうと、純心の精神は変わりません。「まず孝行 マリア様いやなことは私がよろこんで」の学園標語のもと、神様からも人様からも喜ばれる生き方をすること、平和を求め、愛と奉仕を実践すること、それこそが私たちが学び、身につけるべき「純心の心」です。21世紀を迎えて15年、世界は大きく変化しつつあります。しかし、どんな時代のどこの場所においても、ここ純心で学んだ愛と奉仕の精神は必要とされ続けるでしょう。卒業されていったたくさんの先輩方が、これまで築いてきた純心の伝統と精神を、私たちも受け継ぎ、そしてこれからやってくる後輩たちに伝えていきましょう。

純心学園と永井隆博士

永井隆博士は、純心学園の初代校長(後の学園長)江角ヤス先生と、同じ島根県の出身のカトリック信者であることもあって、深い信頼関係で結ばれ、永井博士ご自身も純心学園には創立当初からさまざまな面で関わって下さいました。その関わりのいくつかを紹介したいと思います。

(上の写真は純心大学博物館発行の「平和を~永井隆」より引用しました。)

永井博士のご家族と純心

永井博士の妻であり、筒井茅乃さんのお母様である永井緑さんは1939年から1942年まで、純心学園の家庭科教員として勤めておられました。また永井博士ご自身も、戦前の一時期、「教練」の教員として長崎大医学部勤務の傍ら、来られていました。
永井隆博士の二女である筒井茅乃さんは、純心中学校・純心女子高等学校の10回生です。

被爆後の卒業式で印象的な祝辞

原爆で壊滅的な打撃を受けた純心は、一時大村に校舎を移転、被爆後最初の卒業式が1946年3月に行われました。卒業生129名のうちの約半数が原爆により死亡、その亡くなった生徒の名前も一人一人読み上げられ、式場は泣声に満たされました。この時、長崎県知事代理や大村市長と並んで来賓として参列されていた永井博士は「すりこぎの生涯」というユーモラスでありながら、自己犠牲の重要さを説く深い内容の祝辞を述べられ、式場の空気をなごませたと言われています。
「朝早くから冷たいくさいミソの中につきこまれて、ガリガリのすり鉢に身をあて、その身をすりへらして毎日毎日同じことを繰り返し、遂に用を足さないほどにすりへらした後は、女中さんの手でポイとかまどに投げ込まれる‥‥ しかし毎朝の食卓を満たし人々を喜ばせる。この無言のすりこ木のつつましくも尊い犠牲に学び、そのような使命をもって純心の生徒は社会に出ていってください」とのことで泣き笑いをいたしましたが、時々苦しそうな頭に包帯をし、和服に袴をつけた永井先生のお言葉の中には、先生ご自身の行き方をまざまざと感じさせるものがありました。
(『純女学徒隊殉難の記録』より)

また大村時代には、永井博士が脚本を書かれた「あれから」という演劇を学園祭で上演したこともあり、この上演の時にも永井博士はいらっしゃっていたそうです。

永井博士作詞による純心ゆかりの楽曲

1947年には、永井博士作詞による「純心マッチ」の曲が作られます。「純心マッチ」という言葉は、戦前の高等女学校の第一回卒業式の時に江角校長が式辞として述べたものですが、純心の使命と精神をよく表していると考えられた永井博士が歌唱用に作詞されました。1980年代になって「毎月1日の朝礼の時には純心マッチを」と当時の松下ミネ校長が決定、以来ずっと今日に至るまで歌われています。なお、1日というのは永井博士の命日が「5月1日」であることに由来しています。
1948年には、現在でも8月9日には校内の「慈悲の聖母像」の前で歌われる「燔祭の歌」(永井隆作詞・木野普見雄作曲)が完成します。この詞に関しては永井博士ご自身が「天主をたたえる歌をうたいつつ、炎より熱い信仰に燃えて、天に昇りゆく純潔の子よ。召された汚れなき子羊よ。私がそれを想っていたら、ひとりでに口をついて出た歌がこれでした。‥‥自分で作った歌に自分で泣いたのは、これが初めてです」と述べられています。(これ以外にも、永井博士が作詞されて純心になじみの深いものとしては26聖人殉教にまつわる『ルドビコさま』などがあります)

永井桜と純心

永井隆博士は、原子野を再び花咲く丘にしたいと考え、昭和23年12月に、新聞社から贈られた賞金で、桜の苗木1.200本(ソメイヨシノ)を、本校、山里小学校、浦上天主堂、長崎医科大学などに植えてくださいました。それらはやがて「永井千本桜」と呼ばれ、春になると花を咲かせ、浦上の人々を喜ばせてきました。しかし、70余年の歳月が過ぎ、枯れたり伐採されるなどして、生き残っている桜は多くはありません。本校には、当初は数十本植えられましたが、現在7本が残っています。そして、外見は痛々しささえ感じられるまで生き抜いている「永井千本桜」ですが、今も、春になると必ず、奥深い美しさを秘めた淡い桃色の花を咲かせるのです。しかし、何分にも老樹となり、雨風に耐えられず、少しずつ伐採を余儀なくされています。被爆した方々に喜びと希望を与えたいと切望された永井博士の熱い思いを決して忘れることなく、これからも恒久平和を願いながら語り継いで参ります。

生徒会・小羊会による墓参

生徒会では毎年小羊会の協力を得て、永井博士のご命日となる5月1日に、坂本町の外国人墓地の一角にある永井博士のお墓周辺の掃除と墓参を行っています。草むしりや落ち葉拾いをし、お墓に花を手向け、聖歌を歌い、お祈りをして永井博士を偲びます。