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校長挨拶


純心中学校・純心女子高等学校
校長 佐古 照美
2023(令和5)年度の教育目標をご紹介しつつ、校長挨拶とさせていただきます。
今年度の教育目標を次のように設定しました。
令和5年度 教育目標
「 賢明であること 」
(1)先を読む
(2)信・望・愛のうちに行う
(3)「私が」選ぶ/「私が」生きる
この教育目標は、下記の「十人のおとめ」(マタイ25章1~13節)という聖書の話を土台としています。
 (そこで、天の国は次のようにたとえられる)
 「十人のおとめがそれぞれにともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火を持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後に、ほかのおとめたちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください。』と言った。
 しかし、主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
(マタイ25.1~13)
 学園の理想は「聖母マリア」ですが、その姿に近づくために、学園標語「先ず孝行 マリア様 いやなことは 私が喜んで」が具体的指針としています。それに次ぐものとして、「清く 賢く やさしい女性に」という言葉もあり、学園では、これらの言葉をよく耳にし、目にしています。今年は、この「清く 賢く やさしい女性に」の「賢く」ということについて幅を広げ、意識して過ごしたいと思っています。それで、「賢明であること」という目標設定としました。
 マリア様は賢明な女性でした。その賢明さは、一般的に言う賢さに何かしらプラスされたものと考えます。つまり、一般的にいう賢さは、頭の働きが優れていて無駄なく、その場を要領よく過ごせることを指すのだ思いますが、目標に託した「賢明であること」には、そういう「賢さ」だけに留まらず、物事の判断ややり方にも誠実さが伴い、優しさと強さも備えているのだと理解して、深めていきたいと思います。
 では、マリア様のような賢さとはどのようなものでしょうか。

(1)先を読む

 マリア様は、カナの婚礼(ヨハネ2.1~11)で、ぶどう酒が足りなくなってきたことに気付き、イエスに声をかけます。
 私たちは将来のことを予想して、計画を立てることができます。また、その計画が思い通りに無事に実行されればいいのですが、思いもよらないことが起こったり、予想を反してしまうかもしれないことを理解しています。そういう中で、大事なことは、計画を実現させるために準備が必要だということです。また、きっかけを逃さないことも大事です。後でやろう、そのうちやろうがいつの間にか、時が過ぎてしまい、やらなかった、間に合わなかったという経験もあるのではないでしょうか。
 そして、もう一つ大事なことは、自分のために準備するのです。私たちの生活の中では、人から借りることができるものもありますし、自分の代わりに誰かがしてくれることもあるのですが、人から借りることができないもの、他人が代わってしてあげられないことがあります。例えば、取得した資格とか何かにチャレンジした経験とか体験、親切や思いやりも、自分が身につけておくべきものなのであって、決して人がしてくれるものではありません。他人を見て、うらやましく思うことに留まったままでいないように、自分を磨くことに力を使いましょう。
 先を見て、今、何をしておくべきか、先に必要とすることは何だろうと、自分がすることを考えてみてください。

(2)信・望・愛のうちに行う

 マリアは、これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていました。(ルカ2.19、ルカ5.19)
 信じること、希望すること、愛することで、目の前のことが変わってくることがあります。わかりますか。「できる」と信じていれば、「できるようになりたい」と望めば、目の前の何かに挑戦することができます。「自分には無理」、「できない」と思えば、始めから手を付けず、できない、やらないままに終わってしまいます。挑戦してみて、ちょっとでもできたら、それは喜びになります。やってみた結果、できなかったということになったとしても、挑戦した過程で得るものもありますし、挑戦したからこそ、そこで新しい発見があるかもしれません。
 愛する気持ちがあれば、大きく、広く、あたたかく相手の人を、あるいは物事を包み込むことができます。
 いつかやるではなく、今を大事にしていきましょう。私たちはその日、その時を知りません。

(3)「私が」選ぶ/「私が」行う

 マリアは、神のお告げに対し、問いながら、応えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」
 先述したとおり、親切とか思いやりとかの善行、体験や経験、挑戦など、自分がこれまでにしてきたこと、また、自分が取得した資格とか免許状からわかるように、それらは他の人に分け与えることができないもの、他の人と代わることができないことなのです。どんなに自己犠牲ができる人でも、優しい人でも、それはできません。
 自分ができないことややっていないことを、もしかしたら、他の人のせい、他の何かのせいにしていることがあるかもしれません。でも、そうしたところで、他人が自分のために何かしてくれることがあるでしょうか。厳しい見方かもしれませんが、その結末を引き受けなければいけないのは自分です。最後は、自分の責任になります。
 だから、私が選ぶ、私が生きるということを意識していたいものです。挑戦は決して簡単なことではありません。厳しく、辛い思いをしつつ、前に進んで行くことになるかもしれません。でも、同時に自分の人生を豊かにしていってもくれるでしょう。楽しみなことです。
 そこで、みなさんにお伝えします。大切なことは「これから」のことです。これからのことに全身を傾けて行きましょう。