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純心学園と永井隆博士

永井隆博士は、純心学園の初代校長(後の学園長)江角ヤス先生と、同じ島根県の出身のカトリック信者であることもあって、深い信頼関係で結ばれ、永井博士ご自身も純心学園には創立当初からさまざまな面で関わって下さいました。その関わりのいくつかを紹介したいと思います。

 
 

(上の写真は純心大学博物館発行の「平和を~永井隆」より引用しました。)

永井博士のご家族と純心

永井博士の妻であり、筒井茅乃さんのお母様である永井緑さんは1939年から1942年まで、純心学園の家庭科教員として勤めておられました。また永井博士ご自身も、戦前の一時期、「教練」の教員として長崎大医学部勤務の傍ら、来られていました。
永井隆博士の二女である筒井茅乃さんは、純心中学校・純心女子高等学校の10回生です。

被爆後の卒業式で印象的な祝辞

原爆で壊滅的な打撃を受けた純心は、一時大村に校舎を移転、被爆後最初の卒業式が1946年3月に行われました。卒業生129名のうちの約半数が原爆により死亡、その亡くなった生徒の名前も一人一人読み上げられ、式場は泣声に満たされました。この時、長崎県知事代理や大村市長と並んで来賓として参列されていた永井博士は「すりこぎの生涯」というユーモラスでありながら、自己犠牲の重要さを説く深い内容の祝辞を述べられ、式場の空気をなごませたと言われています。

 

    「朝早くから冷たいくさいミソの中につきこまれて、ガリガリのすり鉢に身をあて、その身をすりへらして毎日毎日同じことを繰り返し、遂に用を足さないほどにすりへらした後は、女中さんの手でポイとかまどに投げ込まれる‥‥ しかし毎朝の食卓を満たし人々を喜ばせる。この無言のすりこ木のつつましくも尊い犠牲に学び、そのような使命をもって純心の生徒は社会に出ていってください」とのことで泣き笑いをいたしましたが、時々苦しそうな頭に包帯をし、和服に袴をつけた永井先生のお言葉の中には、先生ご自身の行き方をまざまざと感じさせるものがありました。
    (『純女学徒隊殉難の記録』より)
     

また大村時代には、永井博士が脚本を書かれた「あれから」という演劇を学園祭で上演したこともあり、この上演の時にも永井博士はいらっしゃっていたそうです。

永井博士作詞による純心ゆかりの楽曲

1947年には、永井博士作詞による「純心マッチ」の曲が作られます。「純心マッチ」という言葉は、戦前の高等女学校の第一回卒業式の時に江角校長が式辞として述べたものですが、純心の使命と精神をよく表していると考えられた永井博士が歌唱用に作詞されました。1980年代になって「毎月1日の朝礼の時には純心マッチを」と当時の松下ミネ校長が決定、以来ずっと今日に至るまで歌われています。なお、1日というのは永井博士の命日が「5月1日」であることに由来しています。

1948年には、現在でも8月9日には校内の「慈悲の聖母像」の前で歌われる「燔祭の歌」(永井隆作詞・木野普見雄作曲)が完成します。この詞に関しては永井博士ご自身が「天主をたたえる歌をうたいつつ、炎より熱い信仰に燃えて、天に昇りゆく純潔の子よ。召された汚れなき子羊よ。私がそれを想っていたら、ひとりでに口をついて出た歌がこれでした。‥‥自分で作った歌に自分で泣いたのは、これが初めてです」と述べられています。(これ以外にも、永井博士が作詞されて純心になじみの深いものとしては26聖人殉教にまつわる『ルドビコさま』などがあります)

永井桜と純心

1947年には、永井博士作詞による「純心マッチ」の曲が作られます。「純心マッチ」という言葉は、戦前の高等女学校の第一回卒業式の時に江角校長が式辞として述べたものですが、純心の使命と精神をよく表していると考えられた永井博士が歌唱用に作詞されました。1980年代になって「毎月1日の朝礼の時には純心マッチを」と当時の松下ミネ校長が決定、以来ずっと今日に至るまで歌われています。なお、1日というのは永井博士の命日が「5月1日」であることに由来しています。

 

生徒会・小羊会による墓参

生徒会では毎年小羊会の協力を得て、永井博士のご命日となる5月1日に、坂本町の外国人墓地の一角にある永井博士のお墓周辺の掃除と墓参を行っています。草むしりや落ち葉拾いをし、お墓に花を手向け、聖歌を歌い、お祈りをして永井博士を偲びます。